炎と飢えと


〜戦中戦後を生き抜いて

第一集
1971年11月1日発行

第一集 はじめに

 戦争とはおそろしいものです。それなのに、なぜ戦争になるのでしょう。

 悲惨な犠牲をはらって26年前終わった第二次世界大戦は、私たちに厳粛な反省をさせずにはいられません。

 新婦人国分寺支部の会員読者のなかには広島で被爆されたかたもいますし、当時子どもだったものは、みなおとなになり、当時の苦労を二度としたくないと考えています。懸命に子どもを育てあげた親たちは、あのような侵略戦争に、息子をやるようなことはあってはならないと、心に誓っています。その気持がこりかたまって、この文集になりました。

 平和へのねがいに、ただ燃えているだけでなく、戦争の火種はどんなに小さくてもふみつぶす気構えを持って、私たちはこれからも生きてゆくことでしょう。

 ※注「凝り固まって」というと考えが頑ななようでマイナスイメージがありますが、
 このときは「凝縮して」というようなニュアンスで用いられたものと考えられます。

8月15日敗戦記念日に思うこと

わかば班 Aさん

 『1945年8月15日の日暮れ、妻の小枝が古びた柱時計の懸かっている茶の間の台の上に、大家内の皿をならべながら「父さんどうしましょう」ときいた。「電気、今夜はもういいんじゃないかしら、明るくしても」』これは、宮本百合子の播州兵やの書き出しの部分ですが、26年前の8月15日、日本全国の家庭で、これと大同小異の会話が、今夜から空襲に怯えることがないのだ、という喜びと、余りにも長く続いた異常な生活にいつしか馴らされて、急に目かくしをはずされた特のような不安な感情とが入り混じった気持ちでかわされたのではなかったでしょうか。

 私も、あの8月15日の正午、和歌山県の田辺で、古びた音質の悪いラジオの前で、ザーザーピーという雑音の中から切れぎれに「耐え難きを耐え、忍びがたきを忍び・・・・」という天皇の放送を母と二人で聞きました。そして「戦争は終わった!」と、わかった瞬間、真っ先に浮かんだのが「わー。今夜からゆっくり眠れる」ということでした。今考えると不思議なのですが、人間というものはおかしなもので、運命の転機になる重大なときに生死とか、今後のことなどよりも、末梢的なひとつの生理的な願望がぱっとひらめいたのです。

 それというのも、和歌山県の南部は、西日本への敵機侵入の入り口でもあり出口でもあったので、最先に空襲警報が出され、最後に解除されるわけです。京阪神や名古屋方面はもとより、各中小都市爆撃の時も総べて頭上をつうかしていきます。

 通るだけなら亀の子のように首をすくめてやり過ごすこともできたのですが、行きがけの駄賃や、帰り際の厄介払いとばかり、時々ボンと落としてゆくのですからたまったものではありません。おまけに、田辺には海兵団があったので、それ自身標的でないという安心感もなかったのです。

 ですから戦争末期には毎晩といっていいほど一晩中何回も防空壕に入ったり出たり、安眠するなどはもう夢物語になっていました。だからこそ、一晩ぐっする眠りたいとどんなに願い続けていたか・・・・。

 さて続いて「これで助かった」という死からの開放感と、張りつめていた糸がプツっと切れた時のような虚脱感が同時に襲ってきました。当時誰ということもなく、紀南は敵の本土上陸地点だという情報が広がっていました。そして敵を山中に引きつけて迎撃する戦術をとるのだから、海岸地帯の周辺は第一線でなく零線だ。いざというときは山に隠れて女や子どもでも戦えるものは武器をとって戦わなければならないということでした。

 敗戦の色濃い中では、そうなるかも知れないという恐怖と、まさかそんなことがという考えがいつも共存していたものです。戦争が終わったとわかったとたん、緊張感がいっぺんにゆるんで、全身の力がすーっとぬけてゆく思いがしました。こうして次々といろいろの思いが消えていきました。

 母としても同じだったのでしょう。ぼんやりとうつろな瞳をほの暗い部屋の中間にとめてじっと黙りこんでいました。ふと私は「ねえ、これから日本はどうなるかしら?」と半ば自分に、半ば母に問いかけますと「ああ、」と、ため息とも返事ともつかない一言が帰ってきただけで、後はまたふたりとも黙って座り続けていたものでした。

 その後、何を語り何をしたのかは26年の歳月を経た今日ではさだかではありませんが、あの放送の直後の光景だけは、今もなお昨日の事のようにはっきりと脳裏に焼き付いています。

 そして今日、あの時、日本の将来についてもっとはっきり自覚しえたら・・・というよりも、もっと日本国民が戦争というものの招待を正確につかむことができていたら、あんな不幸な事態は避けられたものをとくやまれてなりません。戦争を知らない世代がどんどん育ってきた今日、私たち戦争体験者は、豆粕やフスマを食べた話、父や兄弟たちが赤紙一枚で戦場に狩り出されていった話、若者たちが片道のガソリンだけを積んだ飛行機で飛び立っていった話、原爆の悲惨さを具体的に語り伝える責任があると思います。

 それにもまして、重要なことは、真実を知る権利、真実を語る権利、真実を実行する権利がいかに大切であるかを自らの経験を通して伝えることだと思います。

 再び日本が侵略戦争をおこさないように、又、アメリカの侵略戦争の片棒をかつがされないために、声を大にして叫ばなければならないと思います。

 

私の戦争体験記

ひまわり班 Mさん

 私はその頃、女学校を卒業してすぐ日立工場に同窓生と一緒に女子挺身隊という名でせんばん工になって戦場で使う兵器をつくっていました。

 向上へいくと毎日のように若者がカーキ色の軍服を着て召集令状をもってりりしい、笑顔で戦場へたっていきました。『あ、またあのすてきな人いなくなっちゃう!残るのはくずばっかりねえ』など、友達と言い合っては、一緒に働いている男の人をおこらせたりした敗戦の前の年でした。

 その頃私にも女学校三年の頃から兄のように慕っていた五つ年上のOさんがいて文通をしたり又同じ屋根にくらしたこともある青年がありました。

 ある日仕事の帰り海岸まで呼び出されていったら、突然召集令状をポケットから出して黙ってみせられました。私は「あーこの人も戦争へいっちゃうんだなあ」と、毎日欠けていく職場の若者たちを送る寂しさと合わせてしばらく黙っていたらOさんは『今身体が悪いので医者にたのんでいかないようにしてもらうよ。俺は君のいないところにいくのはいやだからね。戦争に行くのはいやだ』というようなことを言いました。わたしはそのとき、とってもOさんのことがいやになりました。なんて女々しいことをいう人だろう。私の兄だって病気で具合悪くて会社休んでいたのに召集令状がきたら元気で行ってくるよといっていたのに。みんな若者は国のためにいっちゃうのにこの人は病気を理由にと思ったら、別れのコウフンに酔っていた17歳の私の気持ちが冷えていきました。

 その後、彼はどこか結核の療養所へいき、私の家も1トンバクダン。海からのカンポウ射撃、三度目には花火のように夜空をそめた焼夷弾で家がなくなってしまい、東北の田舎へ一家中で引き揚げていきました。

 今、夫をもち、二人の年頃の娘をもつ年になって、時々夫が戦争へ引っ張られたら、又二人の娘の将来の恋人が、あの時のようにひきはなされたら、どんな気持ちだろうと思うと、とてもとてもせつなくて胸がいたみます。戦争へはいかないよと、言ったOさんを女々しい人だと思わせた当時の軍国主義の教育が、どんなに人間性をふみにじるものかと空恐ろしくなってきます。私はいとしい夫やかわいい娘をおもうにつけ私の青春時代に笑顔で汽車にのって戦場へ言った人たちや、知人をおもうぬつけ、この新婦人の仕事やあらゆる民主うんどうの中にいて、苦しくても頑張ってやっていきたいといつも考えなおし考えなおししては、活動をしています。

 

ふみにじられた結婚 ─── 死

くろがね班 Aさん

 私たちの年代の戦争体験者が戦中戦後を通じてどれ程苦しく辛い思いをしたかは、とても筆舌に尽くしきれないと思う。一億総決起という体制の中で押さない私たちは恐ろしい恐ろしいと思うばかりでなんの抵抗の術もなかった。どんな学校でも天皇の御真影を飾りその前を通るときは一日に何度通っても最敬礼をして通らねばならなかった。

 一貫した軍国主義の中で空襲で殺されるのはなんとか逃れたいと思っても、こういう教育になんの不思議もなく当然の事のように思い馴らされていた。毎日毎日空襲の恐怖の中で明け暮れ、暑さ寒さの機構の変化などなかったような感じがする。

 戦争の真最中のことだった。21歳になったばかりの私の姉は頑固な父に強引に見合いをさせられ、最前線に出発する3日前に結婚をさせられた。姉には将来を誓った相手がやはり応召されて戦地にいたのだった。私は小学生だったが、その話が決まってから毎日泣いている姉がかわいそうで、授業の途中でも姉がまた泣いているだろうと思うと、勉強も身に入らなかった。

 そして結婚して三ヶ月目に義兄はニューギニアで戦死をしてしまった。婚家で姑夫婦と留守を守っていた姉は、嫁という立場で働くだけ働かされ、栄養失調が原因で病気になり、同じ年に実家に帰され、母の寝食を忘れた看病のかいもなく21歳で義兄のあとを追ってこの世を去ってしまった。

 肉親との生涯の別れの悲しさを押さない時に味わい、戦争さえなかったらと今になっても忘れることができない。

 食糧難のこと、B29の爆撃のこわさ、最前線でたたかった人たち、これを送った人たちの事、書いても書いても書ききれない戦争のいまわしさ。私たち体験者によって二度と再びあやまちを繰り返させない為に次の時代の人達に語り伝えていく事が私たち母親の大きな生涯の役割だと思う。

 

 古日記から(鶴見で)

のびる西班 Hさん

 1943年(昭和18年)4月

 長男出生から育児日記をつけていた。古びたノートを見ると、忘れていたこと、思い出せないことも記されていて、育児に悪戦苦闘した28歳の若い日を思う。

 5月24日

 コメ不足。魚は月3~4回。野菜は5~6回少量配給。肉は月1回。卵は月1人1個。

11月20日

 障子紙を売りにきたので1本1円50銭の闇値で2本買う。全く暮らしにくい世の中になった。紙類は市中にほとんど売っていない。

12月7日

 去る11月20日マキン・タラワ両島に上陸し来れる米軍と交戦せる我陸戦隊4500は、25日全滅せる旨発表された。戦争は刻一刻凄惨となっていく。

12月31日

 大東亜戦も来年は決戦の年であろう。我本土空襲も楽観を許さず。ヨーロッパでは独ソ東部戦線において第3年目の冬期戦となる。例年12時から除夜の鐘が鳴る慣習であったが、寺院の釣鐘は全部献納されて音も聞こえない。強一(長男)は今年中遂に歯が出ない。

1944年2月29日

 本土決戦の危機刻々迫る。マーシャルのクェゼリン・ルオっと両島の我軍6500は遂に全員戦死した。料理屋・劇場などは3月5日から休業することになった。

5月11日

 脱脂大豆混入の配給米。

7月18日

 主食以外殆ど配給がなくなった。栄養問題として由々しいことである。

7月18日

 相模大野まで買い出しに行って、新じゃが1貫500匁ゆずって貰った。16日にサイパン皇軍玉砕との報発表される。居留民も全員運命を共にしたようである。近頃野菜不足はひどく、悪いとされている買い出しもしなければならない。東条内閣総辞職。

7月23日

 また買い出し。内閣は首相小磯にきまった。グワムに敵上陸と発表。

8月12日

 午後1時から強一の体力検査に裏の市場国民学校へゆく。体重があまりに少ないので注意といわれた。

9月3日

 強一をつれて動物園に行った。象も虎もライオンも殺してしまったあとで、山羊や、鹿・豚・狐・ラクダ・キリンくらいしかいない。

10月14日

 南西諸島に敵機400機。那覇市は灰燼に帰す。

11月24日

 午前11時ゴロ警戒警報発令。B2970機が数回にわかれて帝都空襲。荏原、杉並地区へ爆弾、焼夷弾投下せると発表された。

12月1日

 急にヂフテリヤの予防注射が施行されてひと安心。帝都は三越付近、神田・牛込に広い焼跡ができたという。

12月31日

 強一が百日ぜきになってしまった。今日で8本注射をしたが、まだ足りないそうである。正月を迎えるといってもなんの物資もなく、やっと食べているだけ。連日少数機の空襲を受け、30日朝は浅草・蔵前方面では500戸も焼かれた。いよいよ明年は日本軍の興廃の年であろう。

1945年元旦

 今朝も二回空襲警報。

1月17日

 義雄さん(主人の甥)から通信があった。那覇で守備をしているらしい。

1月20日

 強一の百日ぜきは注射を11本してよくなってきたが、元気なく、腸カタルという。昨日阪神地方にB29が80機来襲。航空機工場に若干の被害と発表された。

1月30日

 強一は痛々しいくらいやせてしまった。食料にあまり困ったので実家の母におもりをたのんでひとりで田名(淵野辺の奥)へ買い出し。強一はさみしそうにあちこち探しまわっていたそう。7貫目(約28キロ)背負ってきたが子どもを連れて2貫目持つよりずっとらく。

2月3日

 節分である。大豆を煎って食べた。めづらしく魚(小さい鱈)納豆、大根の配給。銘仙一反でお米5升を交換してくれるうちが近くにあったのでゆく。

 ヨーロッパでは赤軍(ソビエト軍)はベルリンに70キロまで迫った。我軍は比島で苦戦を続け、マニラも危なくなってきた。

2月5日

 20数年ぶりの寒さと新聞に出た。燃料不足のところへ豆炭の配給があってよかった。昨日神戸に100機来襲。東京は28日以来来襲なくおだやか。

 27日B2970機による被害は日比谷・有楽町・銀座・京橋・上野方面など死傷者2000人と。

2月15日

 敵の数編隊名古屋三重静岡方面へ。午前中は便所の汲み取りをした。近頃人で不足のため、こやしやが全然来なくなってしまった。

2月16日

 朝7時位から4時くらいまで、敵の艦載機1000余機、関東静岡地区の飛行場、軍事施設に来襲した。全く恐怖の日であった。うちの真上に数機の音がするたび、伏した。すぐそばの家では、屋根を弾片がぶちぬいた。高射砲もものすごく響き、強一は抱いて伏していると痛いといっては泣いた。

2月17日

 今日も朝、房総方面から数100機侵入。11時ごろには低空に降下。すごい爆音と共に味方の機関銃がなりひびいた。

2月20日

 咲く19日敵遂に硫黄島上陸と発表される。強一はやっと元気になった。

2月25日

 帝都大火災らしい。

2月26日

 昨日の爆撃で、神戸・下谷など、数カ所、約2万軒焼失とのこと。

3月3日

 今朝8時半頃から10時頃まで150機来襲。静岡方面より帝都に侵入、雲上より盲爆した。強一はやっとカーチャンと言える。ひる前から雪降りはじめ寒い。

3月8日

 資材が手に入ったので、おとうさんは隣組のひとと共同の防空壕を掘った。1尺(30センチ)掘ると水が出るので深く掘れない。昨日も今日も午前中、B29の偵察があった。

3月10日

 今暁零時頃からB29が130機帝都に爆撃。9日来の大風で大火災になり、うちからも東の空が真っ赤に見えた。

3月13日

 B29大阪来襲。ここ数日新聞は毎日配達されず、2〜3日まとめてくるしまつ。

3月15日

 艦載機来襲の兆しありと。10日の帝都空襲で浅草・下谷・本所・深川・向島・亀戸など焼失。

 この大空襲はいたましい被害が次々ときかされ、空襲のおそろしさを明日は我が身とかんじさせるようになった。学徒動員で亀戸消防署に配属されていた私の弟は、翌日眼をやられたふたりの友だちの手をひいてやっと麻布まで帰ってきたという話。自分は眼鏡をかけていたので、直接火の粉など眼にはいらなかったので。麻布にいた私の叔母は上総一の宮に疎開させていた子どもたちを見に行っていて、この空襲を聞き、平井から歩いている焼跡で重なりあった死体に「なむあみだぶつ」のとなえ通しだったことを、あとで話してくれた。

3月16日

 蕨の親戚に疎開のことででかけ、新橋から上野までの焼跡を通った。全くひどい。神戸へB29、60機来襲。

3月18日

 名古屋へ100数十機B29来襲。

3月19日

 敵の機動部隊本土に近接。18日には1400機が九州へ。19日に1400機四国・阪神地区の軍事基地を爆撃と。

3月21日

 硫黄島の皇軍遂に玉砕。

3月28日

 疎開貨物の申告を昨日からおとうさんと2日がかりで鶴見駅にならび、やっとすます。敵は遂に沖縄本島の西方慶良間列島に上陸した。戦争はいよいよ悪化してきた。

4月3日

 敵はついに沖縄本島南西部に上陸を開始、艦船は1000余隻に上るという。

 昨2日にはB29帝都西方に来襲。九州には連日大来襲していると。

4月4日

 京浜地区に3時半から夜明けまでB29約30機が工場を主として爆撃。うちのすぐ裏の田甫に焼夷弾が多数落ちていた。川崎・横浜もいよいよ爆撃がひどくなってきた。

4月5日

 桜が咲いているが、何となくさみしい。

4月7日

 午前中B29、P51、120機帝都空襲。名古屋地区にも150機。内閣は小磯辞職後、鈴木貫太郎大将に。

4月15日

 13日夜半から昨夜朝にかけてB29、170機帝都に来襲。市街地爆撃のため滝野川、王子の親戚3家とも全勝。上野から赤羽にかけ、豊島方向も、新宿四谷までも焼け、明治神宮も焼失。宮城大宮御所も一部焼けた。ひと足先に疎開するため滝野川の義姉のところに行っていた姑も一緒に焼け出され、命からがらあすか山へ逃げた。心配して見に行ったおとうさんからの情報。

4月16日

 昨夜、果然敵は京浜地方に来襲した。11時すぎから2時間にわたり、約200機で、焼夷弾に爆弾を混投。特に時限爆弾が多いようである。警報と同時に壕に退避すると、1機ずつ、1分くらいの間をおいて上空を通過。そのうち多数機になり各所に火災がおこって、昼のようになり、焼夷弾や爆弾の落下する豆をこぼすような「ザーッ」という音がしきりに聞こえ、壕の2間(4m)くらいわきや、横手のアパート、裏の学校の屋根に焼夷弾が落ちたが、おとうさんたち隣組のひとたちで消し止めた。壕の外に出ると、煙がひどく目が痛くなる。川崎方面の火災が一番ひどく、風が次第に強くなり、敵機の爆音が聞こえなくなった頃にはゴーゴーというすごい音とともに、灰や火の粉が飛んで来て眼を開けていられなかった。

 新聞も配達されず、交通も品川まで不通。今日は強一の満二歳の誕生日で、昨日しかけておいた赤飯を炊いたが、それは無事に難を逃れたお祝いになった。お米も豆も田名の農家から分けてもらったものである。

4月18日

 まだ電車開通せず。新聞もラジオもなく、情報がわからないが、大森蒲田も大分やられたらしい。水道も出ず、電灯もつかず毎夜ろうそくで過ごしている。

4月27日

 3度目のオワイヤサン(※便所の汲み取り)をした。

4月30日

 B29、P51、200機、立川平塚厚木方面に来襲。

5月2日

 独軍ついに英米軍に降伏と伝えられる。ベルリンには赤軍(ソビエト軍)に殆ど線量されたようである。

5月3日

 ヒットラー総統は1日、ベルリンで死んだと。ムッソリーニも前日イタリヤ北部で銃殺されたと伝えられる。

5月8日

 7日午前2時。遂にドイツは全面降伏した。B29は連日九州四国中国に来襲している。

5月18日

 昨日P51小型戦闘機40機が京浜西南方に来襲した。今日は珍しく朝から陽が出て春らしい。強一は昨夕急に38度5部も熱が上がり、頭をさして痛い痛いと泣いて心配させた。今朝になって平熱になったが、午後また出たのでお医者に連れて行ったところ、はしかではないかといわれた。

5月19日

 午前中数10機のB29京浜西南方に来襲したがくわしくは発表されず。16日にもB29、100数機名古屋に来襲。14日には名古屋城も消失し、国宝の金のしゃちほこも疎開に間に合わなかった一個が焼失したと。那覇首里もいよいよ危険となった。ドイツは降伏後まだ占領国の処置がきまらず混乱状態にあるらしい。

5月23日

 おそばが2つ強一に配給になったが、醤油がなかったので塩湯で食べた。はしかではないらしい。

5月24日

 夜半より夜明けまでB29、250機京浜地区、東海地区に来襲。焼夷弾攻撃をした。今度こそ焼けると思って裏の学校横の空き地に避難してふとんをかぶって屈んでいた。強一は背中で眼をさましたが、わりにおとなしかった。さいわい焼けずに済んだが、近所が数箇所焼けた。夜が明けるとあたりが黄色く、太陽が赤く、ちょうど関東大震災の時のような光景でおそろしかった。

5月25日

 おとうさんがおそく帰ってきて、霞町(わたしの実家)は昨日焼失。焼跡を片付けてきたとのこと。何かうつろな気持ちで涙も出ない。みな無事ということだけで何も聞かなかった。

5月28日

 25日の夜の空襲で、小石川中野など全区に被害があった。芝増上寺・慶応大学・文理大・米国大使館・ソ連、中国大使館・宮城大宮御所や宮家の建物など炎上。24日の空襲では高輪泉岳寺も焼失したと。

 疎開の乗車票の交付を受けるため、強一をおぶって鶴見区役所と鶴見駅へ行き、朝から午前中いっぱいかかってやっと手に入れた。役所の窓口事務は全く非能率的で、腹をたてて帰ってきた。最近非難が各方面に叫ばれている。強一は肥えてきて重くなった。

5月29日

 午前8時頃から敵主として横浜に襲来。みるみるうちに黒煙天をおおって太陽の色も変わり、ものすごい空模様となった。うちの辺は目標からははなれていると見え、付近に弾の落ちる音はなかったが、東神奈川横浜駅がひどいらしい。消防自動車の音が絶え間なく聞こえ、灰や焦げた紙片や、板なども降ってきた。うちの中もザラザラになってしまった。発表によればB29、500機、P51、100機帝都一部へも投弾したが、主として横浜に焼夷弾攻撃を行い、被害相当に上るという。

5月31日

 昨日おとうさんと、やっとのおもいで荷物を鶴見駅まで運び、強一とふたり焼け出された実家へ暇語彙に行った。渋谷まで省線(国電)で、それから霞町(西麻布)まで歩く間、家は一軒も残っていなかった。視認も二人見た。25日の空襲の後片付けがまだついていないのだ。焼け残った病院に避難していたところへ泊まって、今朝鶴見へ帰り、手荷物をまとめて上野に急いだ。強一をねんねこでおぶった上から、荷物を振り分けして肩にかけ、手にも下げて、午後7時35分の臨時列車に乗りこんだ。おとうさん、おばあちゃん(実母)おじちゃん(実弟)に見送られ、列車は新潟をさして走った。

 (これで横浜市鶴見での生活は終わったが、西蒲原郡弥彦村での疎開生活に、日記は続いている)

 

戦争はもうごめんです

 あゆみ西班 Sさん

 戦争当時私は東京下町の有名なおばけ煙突のある荒川沿いの千住にささやかに住んでおりました。映画にもなった高峰秀子主演の「煙突の見える場所」というところです。

 あの頃は私も若くて10代でしたが戦争といえばまず思い出すのが食糧難です。食べ盛りの私もよく栄養不良にならなかったと、今思えば不思議なくらいです。よくサツマイモの買い出しに近県の農家へ行き、8貫目も背負って遠い道を歩き、又警察の取り締まりが厳しい時等電車に乗れず、利根川にかかっている大きな栗橋の鉄橋を歩いて渡ったことがありました。

 でも戦争のナマナマしい体験といえば一番恐ろしかったのが4月のB29の空襲でした。3月10日に上野浅草と都心が焼け出され、それに続いて4月には私が住んでいる都心より荒川に近い周辺がひどい空襲で町々は一夜にして焼け野原になってしまいました。夜の空襲に驚く間もなく、真暗な家に寝ていた私はものすごい地響きと大爆音に家が揺れ、ガラス戸はたおれ、一瞬青い光がひらめき、あまりの恐ろしさに父の手にしがみつき布団に身を伏して「明日は我が身だもう駄目」と、震えていました。

 それが近くの家に爆弾が落ちたこととわかった。それから益々激しくなる敵機の襲撃にあわてて布団をかぶり荒川の堤に逃げ、地面に腹ばいになって息を殺すようにしてB29の去るのを待ったが、その時の恐ろしさは今でも忘れることができません。何しろ真暗な町中の空にはB29が我が物顔に数十機飛んでおり、焼夷弾が無数に落ちてくるのですからいつ自分の頭におちるのか全くわからず、生まれてこの方あんな恐ろしい思い出はありません。

 その焼夷弾の落下の様子は、ちょうどちょうちんが燃えて赤くゆらゆらゆれながら落ちてくるような情景です。命からがら逃げてどうやら無事に命のあったのが全く奇跡でした。

 それでも翌日は工場へ行かなければならず交通は全くなく上野まで焼け野原の残骸の町を歩いて行ったことをおぼえてます。工場へつくと仕事はほとんどなくあちこちで豆などいって食べたりしている状態でした。

 沢山の仲間も戦災にあい、肉親を亡くしたのに、今考えてみると当時はそんなこと案外平気で割り切っていたものでした。多少は同情くらいしたものの国の為に当然の事のように思い込んでいたのでしょうか。戦争がもたらす数限りない残虐な行為や情景は、地獄絵図にもないのではないか。戦争とは人の心を変え、人殺しも平気でやってのけ、ベトナムではベトコン1人殺していくらとか、報奨金がもらえるとか、野獣より恐ろしい人間の皮をまとった動物にすぎません。お国の為、天皇の為と信じ、肉親の死も顧みられないまま、国民は多くの犠牲を強いられ、やっと戦争が済んだとほっとして間もなく、もうすぐに人間は過去にあったことをケロリと忘れて又再び過去のあやまちを繰り返そうとしている。

 もう戦争はごめんです。

 

私の青春時代

あゆみ西班 Tさん

 私の学生時代は戦争に始まり、戦争で終わったといってよいでしょう。小学校時代は日華事変の最中で、高学年の頃よく日の丸弁当といって、梅干しだけが真ん中に入っているお弁当を持って、戦場の兵隊さんをしのんで我慢したものです。

 女学校に入学した年に大東亜戦争が始まり、4年制になった頃は、勉強よりはお国のためにと軍需工場へ学徒動員され、直接飛行機の凄惨に従事しました。終戦までの1年余りの間、三鷹の下連雀にあった「三鷹航空」という飛行機の発動機を作っている工場に毎日通いました。

 丁度今でいえば高校の一年生。現代の高校生からは想像もつかない当時の私たちは、着るものも女学生の制服から、工場から支給された男物の麻袋のような生地の作業着に着替え、防空頭巾をいつも肌身離さず着けていました。その当時学友と記念に撮った写真を今見ながら、戦争というものの恐ろしさとみじめさを改めて思い知らされます。

 断片的にいろいろ思い出されてくるなかで、つらかったこと、それは数えきれないほどありますが、なかでも大雪が振った日のこと。何年だったか忘れましたが、たしか2月の22日と日は覚えています。膝までズブズブ入ってアラ雪の道をみんな黙々として、冷たさを通り越して何も感じなくなった重い足をやっと持ち上げて歩いた駅までの長い途を、なんと遠く感じたことだったでしょう。

 又戦争が終わりに近づく頃は、空襲がひんぴんと相次ぎ、工場で作業もできなくなり、サイレンの音と共に外に飛び出し、近くの林の中の防空壕まで逃げこむ回数が多くなりました。長い時間、暗い穴の中で大豆のいったのをポリポリ食べながら、不安におびえたものでした。

 一度は危うく命を落としかけたこともありました。防空壕まで逃げる隙もなく、敵の飛行機の襲来に出会い、機銃掃射を浴びせられた時でした。戦闘機はすぐ頭上まで硬化してきて、乗っている人間まで見えたような気がしました。丁度ある家の軒先に張り付いて弾丸をさけることができたのは奇跡のような気がします。ほんの1〜2秒のあっという間の出来事だったのですが、恐ろしさに芦がすくみしばらくは呆然としていたのを覚えています。こうした空襲の怖さは何回も経験しましたが、家を焼かれたり、肉親を失った人々から見れば、不幸中の幸いだったかもしれません。

 私たちが留守の間に学校は綺麗に焼かれてしまいました。地下室だけがかろうじて残り、終戦後わずかの間、その焼け跡の崩れかけた地下室で勉強したのが最後でした。

 こうして私の学生時代は終わったわけですが、今になって、落ち着いて勉強できなかったことがくやまれます。戦争体験した私たちが、二度と戦争を起こさせないために努力しなければならないと強く感じます。

 そして今、私は新婦人の一員として、社会の中で勉強をしていきたいと望んでいます。

 

つらかった疎開 こわかった空襲

 あゆみ東班 Kさん

 たしか、あれは昼ごろだったと思います。

 警戒警報、そして空襲になって間もなくでした。防空壕へ入って、すぐものすごい光と音がしました。爆弾です。少爆弾だそうですが、それこそものすごい音でした。空襲が解除になってから行ってみましたが、運良く落ちたところは四つ角の真ん中でしたが、大きな穴があき、近くの家のガラス戸はメチャメチャで、爆弾の恐ろしさを感じました。

 それから東京にいるのが怖くなり、母の実家に疎開しましたが、仙台市であるため、東京とたいして変わらず避難をしたり、いたずらざかりの弟妹がいたので、母の姉たちとはうまくいかず、又、シラミが頭や衣類にたかったり、特に妹についたシラミは誰のよりも大きく、つぶすのに気持ちが悪かったものです。

 母の実家であるのに肩身のせまい思いをしまいsた。悪いことはどれもこれも東京の子どもがしたことになり、大分母なりにつらいことが重なったのでしょう。母は「東京へ帰りたい。実の親や姉なのに、こんないやな思いをするのなら、東京で焼け出されても家族が一緒なら、死んでもいいから帰りたい」と言いだし、それから間もなく帰ることになりました。あの頃は空き家が多く、家を借りることは容易でした。

 すぐに東京の泉町に家を借りることが出来ました。荷物は全部、そこへ運ばれました。

 調布に母の妹がおり、主人は軍人で子どもがなく、1人で住んでいましたのでそこに何日か厄介になり、明日越すというその晩の5月25日でした。空襲で家は丸焼けになってしまいました。父は交通が止まってしまったため自転車で、荻窪の勤め先から調布まで、焼けたことを知らせに来ました。黒く焦げたお米を持って、それでもいいところだけを持ってきたのだそうです。お箸一本もなく、着のみ着のままだったのです。

 その晩は調布でもB29に大分やられ、飛行機の破片があちこちに変な音をたてて落ちて来たものです。いろいろな噂が流れ「畑の中に米人が落下傘で降りたそうだ。棒で殴ってやるんだ」などといっていた人もありました。何よりも家族が揃っていることがほんとにうれしく思いました。

 交通機関がよくなってから、焼けたあとに行ってみました。見渡すかぎり焼け野ヶ原で、ここに住んでいなくてよかったと思いました。

 家は坂の上で、人の話ですと、火は坂下から吹き上げてきたそうです。考えただけでぞーっとしました。焼け跡に残っていたものは鉄釜と鉄瓶と、父が植木が好きで、どこへでも持っていった、50cmくらいの鉢に植えてあったランで、葉は焼けていましたが、根を持って帰りました。今でも新しい芽を出し、立派なランにそだっています。

 私はだんだん夏が近づいてくるのに、外へ行くのにも冬服の腕をまくりながら、暑い日を過ごしたことをおぼえています。食料も不足し、着るものも買えず、夏を冬服で過ごすということは、今ではとても考えられません。でも不平も言わず、ねだりもしなかったものです。

 戦争による被害はたくさんあります。

 思い出したくもありません。しかし夏が来ると以上のこと、そして戦後の食糧難を思い出します。

 

二度と繰り返してはならない戦争

 戦争の体験をと、いざペンをとってみると何を書いてよいやら迷ってしまいます。

 ふりかえってみて、はじめて知らなかった罪の大きさに気づき、次の世代には絶対に戦争は起こしてはならないものと、固く心にとどめてほしいと願わずにはいられません。

 戦争の悲惨さは、敵を憎むだけでなく、仲間同志まで信じられなくなってしまいます。

 なにしろ当時戦争に敗けるなんて、考えてもいませんでした。国を信じて体制に引きづられていたのです。

 終戦の年には、軍需工場に働いていましたが、私は人事課の事務でしたので、他のお友達のようにこの工場でわたしの作ったこの製品が飛行機にとりつけられて戦場にいくのだという使命感も覚えませんでした。

 5月23日の夜の空襲で私たちの寮が全焼しました。その時寮の庭に並んで掘ってあった防空壕に入っていた私たちは、寮長先生の命令で全員近くの山の横穴の壕に待避しました。そこへの5分間ほどの道程で見上げた空いっぱいに焼夷弾の炸裂した赤い炎がひろがり、焼夷弾を落とした飛行機の姿はすでになく、静かに赤い星が地上に覆いかぶさってくるような不気味な威圧感を感じました。

 1000人ほど入れるという横穴で空襲解除になるまで、じっと身をよせあっていました。外へ出てみますと寮のあたりは殆ど焼けてしまってくすぶっていました。

 自分の室の焼け跡にいってみると、入り口においてあった洋傘の骨だけが残っており、部屋の中であったところを棒でつついていたら、母が寮へ入るために縫ってくれた敷布団の紫と黄色の柄がはっきり残っているところがあり、なんとも言いようのない心持ちでした。

 隣にあった寮の人が、あんたたちが消火しないから私たちの寮まで燃えてしまったのだと怒っていました。私はそのとき変わって間もない寮長先生でしたが、冷淡な怖い人に思えて好きになれないでいました。空襲解除になった明け方、200人余りの全員が怪我一つなく無事であったと喜んでくださった温かい笑顔に、いままで嫌っていた自分が恥ずかしくなりました。この時の同室のお友達とは、いまでも年賀状のやりとりだけは続いております。

 5月25日の横浜の空襲で私の兄も学生寮が焼けて、ナッパ服の背中にてんてんと焼け焦げのあるのを着て、本を数冊さげて帰郷したそうです。でも私たちは帰る家があり、両親も弟妹も元気でむかえてくれました。都会に住みついた多くの罹災者の方たちは、それは大変でした。一瞬にして目の前で家族を失い、自分も傷つき途方にくれていた人が沢山ありました。私の遭遇した罹災などそういう苦しい体験をなさった方々から見れば災難なんていえるものではありません。

 戦争の恐ろしさを若い人たちに本当にわかってもらえるよう、学校教育、家庭教育でありのままの姿を語り継ぎ、厳しく批判できる心を養ってほしいと思います。何も深く考えようとしないで、大きな流れにのっていた無力な私ですが、終戦によって少しずつ目が開かれ、戦争だけは二度と繰り返してはならないとつくづく感じ、これからの時代に新しい社会を望んでやみません。

 

学童疎開での生活から

つくし東班 Yさん

 昭和19年夏、私たち6年生男女60名は、遠足にでも行くような軽い気持ちで、疎開地に向かいました。場所は富士五湖の中の河口湖畔。

 富士吉田の駅には、地元の村長さんや、小学校の校長先生、生徒さんも大勢出迎えてくれました。宿についた私たちは、疲れを忘れて湖畔に飛び出しました。

 生まれてはじめて、上から下までの富士を見たのは。その景色は、生涯忘れることのできない美しいフジの姿でした。この旅館は、富士が正面に見えるように建っていて、湖畔は庭続きのようでした。裏は山続きになっていて、とても環境のいいところでした。そこで半年も生活ができた私たちは、とても幸せでした。

 ここのご主人のことを、おじさん、おばさんと呼びました。(現在100歳に近い高齢でまだご健在だそうです)

 おじさんをはじめ、まわりの人達もやさしく私たちをかばってくれました。山のふもとにある小学校は、木造の小さな学校でした。疎開学童は、毎日午後から、たまに午前中の時もあり、授業は二部制だったのです。食事は、大豆のご飯(米3、豆7くらい)におかずはあまりありません。それでも男の子などは、食事の時間が待ち遠しいようでした。

 おやつでも、今の子は、みむきもしないカンパンやビスケット、それも20ケか30ケももらえばうれしくて自分で作ったお菓子入れに入れて大事にしまっておきました。お風呂をわかしてもらうのに、山に木を拾いにも行き、たくさん背負って来て、みんなおじさんにほめられて、お天気のいい日には、毎日とりに行きました。

 秋にはクリ拾い、アケビ(山にだけあるものでつるになっていて楕円形でたくさん出来るのです。甘酸っぱくておいしい実です)とり、柿の木に登ってカキをもいだり楽しく過ごした思い出もあります。

 秋口からぽつぽつかぜをひいたり、下痢をしたり、おできができたりする子どもがいつも何人かいたような気がします。下痢にはゲンノショウコがよくきくからといって教えてくれました。そこで私たちは、学校の帰りにとってきて干しました。それを先生が煎じて飲ませてくれました。やっとたずねて来てくれた家族と長い時間一緒にいることもできずに(もちろん泊まることは許されない)わかれなければならなかった時の悲しさ、もしかしたらこれが最後になるかもしれないという不安はだれにもあったと思います。

 ここの冬は、富士山の吹おろしでものすごい寒さのきびしいところです。

 こたつがあるわけでもないし、みんなふとんに潜りこんでいました。せんたくをするにもお湯等はありません。お天気の良い日に湖畔に出てみんなで、湖の氷を割ってせんたくしたものです。ぬらすそばから、布は板のようになってしまうのには泣かされました。つめたすぎて手や足はバカになってくるし、仕様がありませんのでそんな時は、湖のふちを走って体をあたためたこともあります。

 シモヤケのできた手や足は、ふとんの中に入るとかゆくなり、先生はその処置で、毎晩大変だったことでしょう。

 私たちは小学校卒業のため翌年3月に東京に帰っては来ましたが空襲はひどくなるばかりです。集団疎開から帰った同級生はそれぞれの疎開地へと別れて行きました。東京に残ったものは、空襲で、広島、長崎に行った人は原爆で亡くなりました。はっきり人数もわからずその後連絡もとれないままに、26年の歳月が流れてしまったのです。こんな苦労は私たちだけでたくさんです。だから私たちは戦争をにくみますが、戦争に反対し、平和を守る運動のために少しでもお役にたてばと思いペンをとりました。

 

戦争に明け戦争に暮れる私の学生時代

あゆみ東班 Sさん

 この間、長男と主人と三人で「戦争と人間」を見てきました。3時間もの長い映画でしたが、終始ひきつけられ迫られる思いでした。

 思えば、この映画は、支那事変を背景にして、戦争から受けるさまざまな愛と悲しみをおりまぜており、この時代をともに生きてきた私の幼い頃の思い出が強く蘇って来たのです。

 振り返ってみると、小学校二年の時に支那事変にあい、女学校1年の時に太平洋戦争に拡大し、卒業した年に終戦という全く戦に明け暮れした学生時代でした。

 当時、軍属であった父は、当然、支那事変と同時に中国へ出生し、母は6人の子どもとともに助産婦をしながら、私たちのくらしを支え一家の中心として頑張らざるをえませんでした。しかし、頼りにしていた兄が、東京高校1年の時に病みつき、忘れもしない4年生のお元旦の夜、「お母さん、僕死なないよ」といいながら、看病の甲斐もなく、世を去ってしまったのです。戦場でその悲報を受けた父は、赴任先の病院の同僚の温かい志で、焼香の式を挙げている写真を留守宅に送って来たことなど、今もって悲しい思い出として残っています。

 長男を失った父と母の悲しみ。共に悲しみ合うこともできなかった当時の父と母の辛さをおもいやる現在の自分に、やはり子を持ってこそ、偲ばれる悲しみではないかとつくづく感じました。

 太平洋戦争が始まる前に、父は帰還しましたが、無謀な戦争は日毎大本営発表のウソの戦果報道に、国はますます窮乏を加えてきました。私の女学校時代は制服も国民服に切り替えられ、ただ、ひたすら「ほしがりません勝つまでは」「天皇陛下の御為に」と、愛国精神に燃えてあちこちの工場へ奉仕に行ったり、3年の頃はまるっきり住友通信電気へ通い、軍需産業のために尽くして過ごしました。

 「ススメ、ススメ、ヘイタイススメ。」

 小学校から教えこまれた軍国主義教育は、国定教科書一色にきめられ、国の進む方向に全く素直に疑うこともなく、敗戦の日を迎えるまで、私たちは歩んできてしまったのです。

 終戦後の疎開地での苦労も、戦争さえ起きなかったら、私たちは父母と6人の兄姉弟妹ともに楽しく平和に生活ができたことだと思います。

 戦後の娘時代は、また何もなく、食糧難にあえぎ、心のなかで私は決意したことがあります。

 「もし、再び戦争が起きた時、ひもじい思いをしたくない。だから私はいくらお米が豊富になっても二膳以上のご飯を食べまい」

 何と、かあいそうな決意だったでしょう。

 私は、今、二児の母となりました。男の児です。昔だったらそろそろ徴兵制のための検査を考えなくてはならない時代です。

 戦後26年、戦争の匂いもないとは云えない世の中となりました。私はこのささやかな体験記を子どもに読み聞かせ、平和のとうとさをともに噛み締め続けられることのために、1人の母親として強く生きていきたいと思います。

 (東京母親大会の日に。)

 

弟を失って

あゆみ西班 Tさん

 戦争のさなかに生まれた長女が、今年の冬ははじめての母親になろうとしています。思えばこの娘が生まれて2ヶ月目から空襲が始まりました。長男は2歳。主人の勤先、所沢に住んでいました。

 ここの空襲がもっともはげしくなったのは20年の春からで、特に硫黄島が落ちてからは艦載機P51による空襲が連日でした。飛行場につづく私どもの民家は、いつも恐怖にふるえていました。

 特に恐ろしかった日の記憶です。

 防空壕に入るや否や、ものすごいビシャビシャパチパチという音を立てて、ビューンビューンと何回でも連続に超低空に下っては打ち、私は二人の子どもを体の下に必死にかばいましたが、背中から頭にかけて肉を削りとられたかと思うほどでした。やっと音がやみ、しばらくしてお隣のご主人の声。「奥さん、大丈夫でしたか、ひどかったね」と、私はほっとわれにかえり、生きていたのだと思いました。

 外に出てみると家の屋根は裂けてめくり上がり、壁は弾が入って穴だらけ、茶の間はガラスが飛び、茶だんすがさけ、本当に寸前までそこで食事をしていたことを思ってぞっとしました。それからすぐ山梨の生家に疎開しました。(20年5月)

 ここはまた街中、家という家は全くの飽和状態でした。私は生家でしたが、見知らぬ人たちは疎開疎開と土地の百姓からにらまれ、しかも物々交換でなくては何一つもらえないので、大切なものはみんな食べてしまったのでした。この頃もう、年といわず田舎といわず、無差別爆撃で、旧制中学生だった甥が勤労動員されていて、工場の防空壕で生き埋めになり、甥はやっと助かりましたが、大勢の中学生女学生が目の前で死にました。

 夜、もちろんもんぺのままでしばらく眼をとじると、遠く鹿島灘より艦砲射撃の音が気味悪くひびいてねむられません。そうして広島、長崎の原爆、ソ連の参戦とラジオが伝え、とうとう終戦となったのでしたが、この日戦死した弟の遺骨がかえってきました。玉音放送があると正座してききましたがさっぱり雑音でききとれず、弟をむかえに駅に走りました。途中で敗戦をきき、帰ってきた弟の遺骨をだいてみんなで泣きました。そばにいた伯母が「もう空襲は今日からないのよ」と、うれしそうに言った言葉が印象にのこっています。

 終戦と同時に主人は熊谷局転勤を命ぜられ、私どもは牛馬と同じ貨車にのせられて熊谷につきました。ここがまた前日8月14日の最後の空襲で焼けた町でした。進駐軍がいっぱい町にいて、焼け残った電話局を占領していました。焼け野が原闇市が並び、私どもは飢えをしのぐための長い行列について物を買い、身も心も休まることのない明け暮れでした。

 これはほんの一部だけ書きましたが、まだこの前後にさまざまなことを回顧して、戦争のために破壊された生活を思い起こします。国民全体がなんの不信も抱かずに本土決戦と思っていたのですから、長い間の軍国主義教育のおそろしさを、戦争の惨禍の後でしみじみと思いました。

 

戦争の体験

教員班 Jさん

 第二次世界大戦または15年戦争といわれるこの戦争は、日本の国内が戦場となり、しかも負けて終わった初めての戦争である。そういう点で、遠い外国で戦い、勝った勝ったで終わったこれまでの戦争と大きく違う。

 従って、私の戦争体験としても、日本国内が凄惨な戦争となった末期と、敗戦にともなう苦しい戦後とを切り離して考えることはできない。

 疎開したため、焼夷弾や爆弾を直接あびていないことからも、むしろ戦後に語りたいものがある。

 「欲しがりません勝つまでは」この標語をたてに、伸び盛りの子どもからも、白いご飯を、飴を、肉を、本を、鉛筆を、紙を、運動靴を、ゴムマリを・・・・すべてとりあげて、総力をあげて国のために戦った。

 と、信じていたのは馬鹿正直な貧しい人々の群だけであったこと。一部の人(軍部、財界)は子どもから奪ったものをたらふく食べ、私腹をこやしていたこと。一部の消息通は日本が敗けるであろうことを知っていたこと。

 それらすべてを知らされずに、国のため、勝つためと、純真な心をもてあそばれたのである。

 空襲で、姉が(今の中学2年)動員で行かされていた飛行機工場に、真っ黒な爆弾がボカボカ落ちるのを、ガタガタふるえながら見ていた毎日。そして夜、真っ青な顔で帰宅した姉から「生き埋めになった」「友達がひとり死んだ」と聞かされるおそろしさ。機銃掃射でねらいうちされて校庭を逃げまわったこわさ。麦や大根で量をふやした水っぽいボソボソのご飯。砂糖の甘さなど、思い出すこともできなくなったひもじさ。等々。言い出せばきりがない。

 が、私の胸に食い込んで、半世紀たっても消えないもの。それはそのひもじさ、おそろしさではない。そのひもじさ、おそろしさが、無益のものであり、無知のみじめさであったことを知った無念の思いである。

 だまされた思いが、反抗となって爆発する。教える立場にいながら教えてくれなかった者、それは教師であるとして、当然教師がその矢面に立たされた。ところが、すべての価値判断をくつがえされ、茫然としていた教師は、授業はおろか、反抗する私たちをしかりもしなかった。

 そこには自分で考え自分で判断し行動することを知らない、みじめな大人の姿があった。知らされず、だまされていた大人の集団があった。母も、(不思議と反抗の対象と考えられなかったのだが)何も知らされないままに乏しい物資の中で買い出しに、ボロ繕いに、防火訓練においまくられ、かり出されていた1人であった。

 おとなを軽蔑し、反抗することしかしらなかった私も、次第に、先生も、親も、多くのおとな達も、被害者であることを理解しはじめ、そういうおとなになるまい、「知らなかった」では済まされない、無知こそ悪であると思うようになってきた。

 その頃である。戦中、徐々に物をいうことを禁じられ、しらずしらず真実がまげられ、戦争協力に向かわせられていく教育の中で、真実を伝え、または伝えようとして、獄に入れられた教師、同労者のたくさんいたことを知ったのは。入獄しないまでも、わずか自分の教室の子だけでもと、細々とひそかに民主的な教育を行おうと苦しんだ教師がいたことも。そういえば私の前にも「中国での日本の戦勝は、点と線だけで、広大な中国大陸の市と道路以外は八路軍が支配しているのだからもろいものだ」という話を授業中にしてくれた地理の教師がいたことを思い出した。当時としては勇気のいる発言だと今にして思う。

 全国のひたる所の草の根の教員たち、そのひとりひとりの善意も、努力も、苦しみも、国家という大きな組織の前には歯も立たず、結果的には戦争協力にくみこまれていった。その教訓、何百万という血をもって購われた教訓を、私たちはいかさなければならない。

 知らされず踊らされた無念さを糧とし、個々の力の弱さをかみしめて、二度と再び同じ道を歩くことのないよう生きる。これが戦前戦後を生きて私のたどりついた所である。

 軍備は公然と拡張し、職場は管理体制のしめつけ厳しく、何が平和か、何が民主主義かと言いたくなるような今日。教育の国家統制、差別選別等が、国家の名で戦前と同じように、行われようとしている。「知らなかった」と幼い生徒児童の前にわびることのないように、私たちは今、何をしたらよいのか、よく知り、よく考え、そして勇気を出して仲間をつくり行動したいと思っている。

 

戦災の夜

わかば班 Mさん

 終戦から半年のほど前の7月29日の夜でした。突然警戒警報のサイレンがなりだしました。夢うつつでその音を聞いていた私は、母により起こされたときは無性に腹がたってきて

 「今日は壕に行かない」

 と言いながら縁側に寝転んでいました。

 月の明るい静かな夜でした。どれくらい時間が過ぎたでしょうか。サイレンが再びなりだしました。それははじめ解除のサイレンでした。ところが途中で空襲警報のサイレンに変わり、サイレンが鳴り終わるやいなや、B29の爆音が聞こえてきました。

 「ヒュー」という金属製の音とともに焼夷弾の落下音がしたかと思うと、パっと一面が明るくなりました。赤く燃え上がる炎、私は防空壕に飛び込みました。爆音の度に壕の柱がきしきしと音をたてます。力を入れて耳を押さえていましたが、音は聞こえてきます。パチパチと家の焼ける音が聞こえてきました。

 私たちが壕から出てみると、川向うは真っ赤でした。道路にはあちこちから走りだしている多くの人達が、燃え上がる炎の中で右往左往していました。家の近くに軍馬に指定され招集命令を待っている馬が3頭おりましたが、火が恐ろしいらしく「ヒヒーン」と悲しそうな声で鳴いてどうしても馬小屋から出てきません。馬がまた「ヒヒーン」といななくと、私と妹は防空壕に走りこみました。

  後から「壕の中は危ないのよ。煙にまかれたらどうするの」と、いつになく強い母の声と同時に、私たちは引き出されたのです。濡れタオルを口にあて、その端を首の後ろでむず日ました。防空頭巾の上に夏布団を妹と一緒に被り、裏山づたいにどんどん奥へ、逃げていったのでした。

 暗い恐ろしい山も、逃げてきた人たちで賑やかでした。山から見る町は真っ赤な火の海でした。

 予科練のある町はずれの湾の内側は、祖母に連れられてお寺で見た地獄絵そのものでした。2つの火の輪が重なったと思うとバっと離れ、離れる度に炎は大きく広がって生きました。私は真夏なのに布団を体にまきつけて夜中、ぶるぶる震えていました。

 この予科練のあった小さな田舎の町が殆ど灰になったのはこの時でした。

 翌朝、山を下りて来た私が見たものは、一面の焼け野原でした。黒く焼け焦げた樹、熱くお風呂の湯のように湧いた池の水、その中で鯉がお腹をみせて浮いていました。まだ煙のたっている焼け跡は熱くて長く立っていることができませんでした。母のそばにいれば安心していられた9歳の私も、妹が「お家に帰ろうよ」と母にせがんでいる声を聞くと、どうしようもなくポロポロ涙が出てくるのでした。

 その焼跡で生米の大量に焼け焦げた匂いは異様な臭気を放っていました。

 私はどうしてもその臭気を忘れることができません。

 今でも、生米の焼ける匂いをかぐと、私は、あの夜の恐ろしさが、まざまざと昨日のように浮かび上がってくるのです。

 

夏草

のびる東班 Iさん

   なぜ こんなことろにねているのか-------------

   ここはどこだろう

   むせかえる夏草の匂い

   蛋白質の焼けこげる異臭

   耳のそばを人が通る ざわざわと通る

   放り出された粘土細工のようなけだるさ

   コツコチと腕時計の音がする

   午后三時

     「可哀そうにのう ここにもお前のよう

      な女の子が-----------」

     わたしのことだろうか?

 

   体の上にのっているのは何だろう

   ずどんとした重み

   それは煮しめたような一枚のむしろであった

   この一枚のむしろのかげに

   絶えなむとしたわたしと

   カサカサに乾いた少年の屍が

   頭を並べて葬られていたのか

   硬直し、ぽっかり口を開いた

   名も知らぬ少年よ

 

   ぼろぼろの幽気の列が動いてゆく

   赤むげの裸身をひきづり

   桃の皮のような皮ふをぶらさげ

   髪逆立てて

   叫びながら

   哭きながら

   ある者はものも言わず

   広島湾にそそぐ元安川のこの川べりを

   火を避けて人々が下ってゆくこの道の辺に

   わたしはいったい どれだけの時を

   意識を失って倒れていたのか

 

   爆弾はどこに落ちたのか

   奇跡のように焼け残っていた広島を

   亡者の街にしたものは何か

   わかるはずもない十六歳の少女のわたし

 

   一九四五年八月六日

   ぬけるような青い空

   焼けつく炎暑の朝

   一瞬の閃光

   崩さる校舎

   のしかかる垂木

   とび散るガラスの破片

   阿鼻叫喚の中から這い出し

   よろめき よろめき 劫火をのがれて

   肩をくんでいた友達ともはぐれ

   「がんばれよ」という先生の声もうすれ

   吸い込まれるように

   この夏草の土手に倒れて

   それからの小半日

   わたしの魂は

   どこをさまようて還ってきたのか

   どこをただようて還ってきたのか

 

 原爆がわたしの頭上で炸裂して、26年経ちました。その日のことはとても筆舌に尽くすことができません。死ぬ淵まで行って、戻ってきた私は、厳しく自分に問い続けたいと思います。

 -----------生き残った者は何をすればいい?

 

動員学徒のあけくれ

こだま班 Yさん

 筑波山ろくの学校農園から、正式の学徒動員として東京貯金局へ配備されたのは、空襲警報が夜鳴り出した19年の終わり頃であった。戦費調達のためのわりあて郵便貯金を、貯金台帳に記録し集計する仕事であった。そろばんの得意な私に苦痛はなかったが、そろばんを使い慣れない人にはかなり苦しい量の仕事であった。職場には男子職員は数えるほど少なく、ほとんどが女子職員で、その大半は挺身隊と学徒動員のこれも女子ばかりであった。

 週に一度、先生の職場訪問があり、月一度学校集合があり、そのときだけわずかに学生気分を取り戻すのだった。翌年3月の空襲で文京区の学校は灰になり、本所深川に住む2人の級友の死を知らされた。

 職場では週2日だけ昼食が支給されて、食パン2枚と、どろりとしたお菜が少しばかりついていた。

 それでも昼食の出る日が待ち遠しかった。その頃家族が食べていた豆粕入の雑炊や、ふすま入りのパンが私の胃袋にはおさまらないのだった。だからお弁当は大豆のいったものを持っていって屋上にひとり出て本を読みながら気長に噛み砕いた。ふかし芋のお弁当は上等のぶるいだった。軍需工場へ行っている人の記では毎日大豆入りごはんがどんぶりに山盛りいっぱい支給されるのだそうだ。うらやましくて軍需工場へ行きたいと本気で思ったりした。

 仕事のことより毎日の通勤が並大抵ではなかった。三田にある貯金局は山手線の田町から歩いて7分くらいの所にあった。家から15分歩いて東長崎駅へ行き、そこから私鉄で池袋へ出て山手線に乗り換えて半周して田町駅へ出るのだ。ところが私鉄は始発駅から満員という状態だから、途中駅から乗るにはよほど力がないと乗ることはできない。私鉄に乗ることはあきらめて都バスで山手線の目白駅へ出ることにしたが、まもなく燃料不足から木炭ばすもまびき運転にされて台数が少なく、何時乗れるかあてにならなくなった。

 毎日遅刻するわけにはゆかないから、早起きして歩くことにした。40分あまりの道のりは芋腹にはとてもこたえた。ようやく目白駅についても山手線も満員でやっと乗り込んでみれば、座席の上まで靴のまま立っていた。降りる駅が近づくと大声をあげて「おりまあす」と言いながら出て行かなくては降りられない。座席の上からドアへ行くまで足が床につかないこともあった。背のひくい私は長い間顔と胸をしめつけられたかっこうでいるので、いまにも窒息するのではないか、肋骨がおれるのではないかという不安とつきあっていた。それでも職場を休みたいと思ったことは一度もなかった。職場では栄養が悪くて病気にかかったり、食料買い出しやらで、欠勤が目立って多くなっていった。

 朝は元気があるからまだいいのだが、帰りの電車はいっそう大変だった。ひと電車でも早いといくらか混み方が違うので毎日駅へ殺到した。

 駆けるように駅へ急いでいるとき空襲警報のサイレンとほとんど同時に、すさまじい爆音を頭の真上に聞いた。近くを歩いていた人たちの後について夢中で道路端の共同用防空壕に走りこんだ。低い爆音にまじってパチパチという豆のはじけるような音がいっとき続いた。

 今まで聞いたことのない音だと思った。

 静かになったので湿っぽい息苦しかった防空壕から這い出して見ると、防空壕の近くで負傷したらしい人を消防団の人が数人でかついでゆくのが見えた。

 知らない男の人が「今のはグラマンの機銃掃射ってやつだ。危ない目にあった」と言っていた。私はそれまで防空壕に入るのがいやでめったに入ったことがなかった。

 その後動員先が芝の軍需工場へ変わり、すぐ敗戦をむかえた。当時私は14歳。女学校3年生だった。

 

あとがき

新日本婦人の会 国分寺支部 教宣部

 私たちの文集「炎と飢えと」を最後までお読みくださり、ありがとうございました。私たちは、なれない手にペンをとってみて、戦中戦後を想起し、あふれかえる思いを表現するのに、とまどいとじれったさを感じました。そしてこれを書くことによって「戦争」がどんなに非人間的なものかということを心の底から感じました。

 私たちは、これを今年にとどめず来年も再来年もいつまdめお、書き続けてゆきたいと願っています。

 今後共よろしくお願いいたします。

71年10月1日 教宣部